がん原性試験とは?(ICH S1:長期試験・遺伝子改変マウス・証拠の重み)
ある薬を、高血圧や糖尿病のように何年も飲み続けるとします。そのとき静かに気がかりになるのが、「長く使ううちに、がんができやすくならないか」という問いです。多くの発がんは、遺伝子への傷や細胞の増殖の乱れが、長い時間をかけて積み重なった末に起こります。だからこそ短い試験では見えにくく、あらかじめ動物で長い時間をかけて確かめておく必要があります。この評価をがん原性試験薬を長期に投与したとき、がんのできやすさを調べる特殊な毒性試験で、長期投与薬で重要。と呼びます。

ただ、すべての薬でこの長い試験が要るわけではありません。数日で使い終わる薬にまで二年がかりの試験を課すのは、動物にも開発にも大きな負担です。そこで日米欧が合意した ICH医薬品規制の国際調和を目的として、日米欧の規制当局と製薬業界が参加する国際的なガイドライン策定機関。(医薬品規制調和国際会議)は、ICH S1 という一連のガイドラインで、「どんな薬でがん原性を調べるべきか」「どう調べるか」「どこまで投与するか」を体系立てて示しています。がん原性評価は、いきなり試験を回すことではなく、まず要否を見極めるところから始まる——ここが出発点です。
本稿では、この ICH S1 の枠組みに沿って、評価が必要になる条件、げっ歯類を使ったいわゆる二年試験、遺伝子改変マウスを用いた中期試験、遺伝毒性の結果や作用機序を束ねる証拠の重み(weight of evidence母動物毒性や用量反応など複数の情報を総合して、所見の意味を判断する考え方。)による判断、そしてヒトでの想定用量との曝露マージン想定される臨床曝露量と試験での曝露量の比。意味のある上限用量を選ぶ手がかりにする。までを順に見ていきます。個々の毒性試験の全体像は 非臨床の毒性試験・安全性薬理 も参照してください。
そもそも、どんな薬でがん原性を調べるのか
最初の関門は、試験の中身ではなく「そもそも要るのか」という判断です。ICH S1A は、想定される臨床使用が長期にわたる薬——おおむね連続して六か月以上使う薬や、慢性・再発性の病気で断続的に長く使う薬——を、がん原性試験の主な対象と位置づけています。使用期間が短ければ、原則として長期試験は求められません。逆に、長く体にとどまる薬や、生涯にわたって使う薬では、評価の必要性が高まります。
期間の長さだけでなく、「気がかりの要因(cause for concern)」があるかどうかも判断材料になります。同じ系統の薬で発がん性が知られている、化学構造が発がんを疑わせる、反復投与毒性試験薬を繰り返し与え、どの臓器がどの量から傷むか、回復するかを調べる中核の毒性試験。で前がん病変のような所見が出ている、組織に長く蓄積して刺激が続く——こうした兆候があれば、使用期間が長くなくても評価を前倒しで考えることになります。
もう一つ、判断を大きく左右するのが遺伝毒性化合物が遺伝子や染色体を傷つける性質。点突然変異や染色体損傷を含み、複数の試験で分担して調べる。の結果です。遺伝子や染色体を明確に傷つける(遺伝毒性がある)と分かっている薬は、種を越えて発がんしうる物質とみなされ、ヒトでの発がんリスクありと扱われます。この場合、あえて長期のがん原性試験を追加しても得られる情報は限られるため、実施しないことが多くなります。遺伝毒性の標準的な試験群は 遺伝毒性の標準バッテリー(ICH S2) で、その入口となる細菌を使う試験は エームス試験の方法 で扱っています。がん原性の要否は、遺伝毒性の結論と切り離せません。
二年——げっ歯類の長期試験という土台
評価が必要と判断されたとき、中核に置かれるのがげっ歯類を使った長期投与試験です。慣習的に「二年試験」と呼ばれ、多くはラットを用い、動物のほぼ生涯にあたる期間、毎日投与を続けて、あらゆる臓器に腫瘍が増えないかを病理で丹念に調べます。低用量から高用量までいくつかの群を置き、投与に伴って腫瘍の発生頻度が増えていないか、発生が早まっていないかを、対照群と比べて評価します。
なぜ二年もかけるのか。発がんは、遺伝子の傷や増殖の乱れが積み重なった末に、時間をおいて現れるからです。数週間や数か月では、こうした遅れて出る変化を捉えきれません。動物の一生に近い時間軸で観察して初めて、腫瘍の増加という形の変化が見えてきます。長い時間そのものが、この試験の本質的な部分なのです。
遺伝子改変マウスの中期試験——二種目をどう置き換えるか
かつては、二年試験をげっ歯類の二種(ラットとマウス)で実施するのが標準でした。しかし、二年試験を二種で行うのは動物数も時間も大きな負担で、しかもマウスの二年試験は解釈が難しい所見を生みやすいことも知られていました。そこで ICH S1B は、片方の長期試験(多くはラットの二年試験)に、より短い期間で発がんの兆候を捉える試験を組み合わせる選択肢を認めました。この短い試験の代表が、遺伝子改変マウスを用いた中期試験です。
発がんに関わる遺伝子をあらかじめ操作して、発がんの兆候が早く現れやすくしたマウス(rasH2 マウスや p53 欠損マウスなどが知られます)を使い、二年よりずっと短い期間で腫瘍の増加を見ます。あらかじめ感受性を高めてあるぶん、短期間でも発がん性を拾いやすいのが利点です。ラットの二年試験で慢性的な影響と腫瘍を、遺伝子改変マウスの中期試験で発がんの兆候を——という役割分担で、二種の長期試験に代わる評価を組み立てます。
どこまで投与するか——用量設定と曝露マージン
がん原性試験の結果は、どの用量まで投与したかで意味が大きく変わります。低い用量までしか試していなければ、「腫瘍が増えなかった」と言えても安心の根拠は薄くなります。だからこそ、どこまで投与するかの決め方が重要になり、ICH S1C はその考え方を整理しています。
上限用量の決め方にはいくつかの物差しがあります。動物が耐えられる上限(最大耐量動物が耐えられる最大の投与量。近年は曝露マージンを踏まえ、機械的に最大耐量まで上げない考え方が重視される。、MTD)まで上げる、体内の薬の量(曝露量)が頭打ちになるところまで上げる、あるいは非遺伝毒性の薬では、ヒトでの想定曝露量に対して十分に高い曝露が得られる用量までとする、といった選び方です。とりわけ後者では、動物とヒトの曝露量の比(AUC遠心中の試料の沈み方を光で測り、分子の大きさや会合状態を調べる分析装置です。純度や凝集の評価に使います。詳しく →比)で高用量を根拠づける考え方が用いられ、二十五倍という比が一つの目安として知られています。いずれの物差しでも共通するのは、血中の曝露量をきちんと測って裏づけることです。この曝露の測定と評価は トキシコキネティクス(ICH S3A) の領域になります。
ここで出てくるのが曝露マージンという見方です。ヒトが治療で受ける曝露量に対して、動物で腫瘍が増えなかった曝露量がどれだけ上にあるか。この差が大きいほど、ヒトでの使用は安心側にあると読めます。逆に差が小さければ、たとえ動物で腫瘍が増えていても、あるいは増えていなくても、ヒトへの意味づけは慎重にならざるを得ません。がん原性の評価は、腫瘍が出たかどうかだけでなく、ヒト用量との距離とセットで読むものです。
証拠の重み(weight of evidence)で「試験の要否」まで問い直す
ここまでは「試験をどう組むか」でしたが、近年はもう一歩進んで、「そもそもラットの二年試験を実施する意味がどれだけあるか」を、試験前に手持ちの情報から見積もる考え方が取り入れられています。ICH S1B の改訂(S1B(R1))が示した、証拠の重み(weight of evidence)による判断です。
ここで束ねられるのは、薬がねらう標的や作用機序薬が効果を発揮する仕組み。抗体医薬ではADCCやCDCなどが該当し、アッセイで裏づける。、遺伝毒性の結果、反復投与毒性試験で見えた組織の変化、ホルモンへの影響、免疫への作用といった、すでに得られている情報です。これらを統合すると、ラットの二年試験でどんな結果になりそうかが、ある程度予測できる場合があります。発がんリスクがほぼないと強く予測できるとき、あるいは逆に懸念が明らかで試験をしても結論が変わらないときには、二年試験を追加してもデータの上乗せが小さいことがあります。こうした見極めを、複数の情報の重みづけで下すのが証拠の重みの発想です。
この考え方は、動物試験を闇雲に増やすのではなく、科学的な根拠がある場合に限って絞り込もうという流れの中にあります。遺伝毒性の結論や作用機序の理解が確かなほど、証拠の重みによる判断は説得力を持ちます。がん原性評価は、一律に二年試験を回す作業から、手持ちの証拠を束ねて要否と設計を選ぶ営みへと重心を移しつつあります。
がん原性評価をどう束ねるか
改めて全体を見渡すと、がん原性評価は一つの試験の合否ではなく、いくつもの判断の積み重ねだと分かります。まず要否を見極め(ICH S1A)、必要ならげっ歯類の長期試験を土台に据え、二種目は遺伝子改変マウスの中期試験で置き換えうる(ICH S1B(R1))。用量は曝露をきちんと測って根拠づけ(ICH S1C)、結果はヒト用量との曝露マージンとセットで読む。そして遺伝毒性の結論や作用機序を束ねた証拠の重みが、要否と設計の両方を左右します。
どの試験も、単独ではヒトでの発がんリスクを言い切れません。遺伝毒性で分子レベルの傷を、長期試験で生涯にわたる腫瘍の増加を、曝露マージンでヒトとの距離を——それぞれ別の角度から照らし、突き合わせて初めて、長く使う薬の安心を安全側に見積もれます。がん原性評価は、長い時間軸と複数の証拠を束ねる、非臨床安全性の中でもとりわけ息の長い営みなのです。
参考文献
- ICH S1A, Guideline on the Need for Carcinogenicity Studies of Pharmaceuticals(がん原性試験の要否を定める一次情報)。ICH 安全性ガイドライン一覧
- ICH S1B(R1), Testing for Carcinogenicity of Pharmaceuticals(長期試験の種と、証拠の重みによる判断を示す)。ICH 安全性ガイドライン一覧
- ICH S1C(R2), Dose Selection for Carcinogenicity Studies of Pharmaceuticals(用量設定・曝露量比の考え方)。ICH 安全性ガイドライン一覧
- U.S. FDA, Search for FDA Guidance Documents(がん原性関連ガイダンスの検索窓口)。fda.gov
- PMDA(独立行政法人 医薬品医療機器総合機構)(日本の審査・ガイドライン情報)。pmda.go.jp