bioRxiv に、哺乳類細胞の生理を自動で訓練する装置に関するプレプリントが投稿された。抄録によれば、要旨は次のとおりである。
- 細胞の生理を制御するのが難しいのは、細胞が複雑であることに加え、介入に対してリアルタイムに適応する能力を持つためである。その結果、薬剤耐性やトランスジーンのサイレンシングといった問題が生じる
- この適応性は、行動科学で定義される古典的な学習の形に似ているという証拠が蓄積している
- しかし適切なプラットフォームがないため、生理的・転写的な空間における細胞の適応的な問題解決能力について理解に空白がある
- 本研究は Cell Trainer と呼ぶ装置を提示する。非神経系の哺乳類細胞に対し、時間制御した薬剤パルスを刺激として、多様な自動訓練実験を行える
「細胞が学習する」という言い方は比喩に聞こえるが、製造の現場で起きている現象を説明する枠組みとして読むと、話が具体的になる。
培養の現場で「適応」は日常的に起きている
細胞が条件に応じて挙動を変えることは、生産培養では当たり前に観察される。
- 乳酸の代謝シフト:培養後半に乳酸を消費に転じる。同じ細胞株でも、条件によって起きたり起きなかったりする
- トランスジーンのサイレンシング:継代を重ねると発現が落ちる。ゲノムの配列は変わっていないのに、出てくる量が変わる
- 種培養の履歴が本培養に効く:どう増やしてきたかで、その後の挙動が変わる
いずれも「細胞が過去の条件を覚えている」と表現できる現象である。そして製造の側は、これを再現させることに苦労している。同じ手順を踏んでも同じにならない場合、その差はどこから来ているのか。
「刺激の時間構造」を変数として扱う
このプレプリントの装置設計で目を引くのは、時間制御した薬剤パルスを刺激としている点である。
通常の培養実験では、薬剤は「入れるか、入れないか」「濃度はいくつか」で扱われる。時間軸は、曝露時間という1つの数字に畳まれることが多い。
しかし学習の枠組みでは、同じ総量でも与え方が違えば結果が変わることが前提になる。
- 連続曝露と、間欠的なパルス
- パルスの間隔
- 2種類の刺激を与える順序と時間差
これらを系統的に振るには、手作業では回数が足りない。自動化が要求されるのは、この組み合わせの数のためといえる。実験計画法による培地開発やマイクロバイオリアクターによるスケールダウンが普及したのと同じ理由である。
製造に引き寄せて考えると
この枠組みが実務に接続しうる場面をいくつか挙げると、次のようになる。
細胞株の構築と選抜。 現在の選抜は、ある時点の生産性と安定性で行う。適応の性質そのものを指標にできれば、「継代で落ちにくい株」を選ぶ根拠が変わる可能性がある。単一細胞由来性の確認とは別の軸になる。
フィード戦略の設計。 流加培養のフィードは、栄養を切らさないことを主眼に組む。しかし細胞側が「与えられ方」に適応するなら、フィードの時間構造そのものが設計変数になる。
分子・ベクター・細胞の設計。 サイレンシングを避けるためのプロモーター選択や挿入部位の選定は、既に行われている。それに加えて、どう培養してきたかが発現の持続に効くなら、設計の範囲が広がる。
灌流培養での定常状態。 灌流は条件を一定に保つ運転だが、一定であること自体に細胞が適応する可能性がある。長期運転での挙動変化を説明する枠組みになりうる。
測る側の準備が要る
一方で、この種の実験を回すには読み出しが要る。抄録は生理的・転写的な空間での適応に言及しており、実際には次のような測定が組み合わさることになる。
- ライブセルイメージングやハイコンテントイメージングによる経時的な観察
- 細胞数と生存率の自動計測
- 転写プロファイルの取得
刺激を自動化しても、読み出しが手作業なら実験の回数は増えない。装置として成立させるには、刺激と測定の両方を同じ時間軸に載せる必要がある。
なお、本件はプレプリントであり、査読を経ていない。細胞の適応を学習の語彙で扱うこと自体、解釈の妥当性が議論されうる領域である。ただ、装置として「時間構造を制御して繰り返す」枠組みが出てくること自体は、培養条件の探索の道具立てが増えるという意味を持つ。
※ 本ページは公開情報(bioRxiv に投稿されたプレプリントの抄録)をもとにしたProglenth編集部による整理です。装置構成・実験手法・結果の詳細は一次情報をご確認ください。本文中の解説は細胞培養一般の構造に関する説明であり、当該研究の具体的な内容や結論を示すものではありません。査読前の報告であるため、内容は今後変わりうる点にご留意ください。