CHO細胞培養のpH制御:CO2散気と重炭酸で酸性・塩基側を動かす
ラボの5Lで完璧に決まっていたpH制御が、2,000Lに持っていった途端に言うことを聞かなくなる。培養のスケールアップ小型培養で確立した条件を、より大きなバイオリアクターへ拡大する取り組みです。酸素供給の指標kLaなどを揃え、性能を再現します。詳しく →を担当するエンジニアなら、一度は経験する場面だ。
犯人はたいていCO2です。同じ制御ロジック、同じ設定値なのに、大きなタンクでは吹き込んだCO2が抜けきらず、溜まっていく。pHのトレンドだけ眺めていると何も起きていないように見える。その間にも、細胞は確実に痛んでいきます。

CHO細胞抗体など組換えタンパク質の生産に広く使われる、チャイニーズハムスター卵巣由来の培養細胞です。詳しく →の培養では、pHを狙った範囲に保つことが生産性と品質の土台になります。細胞は代謝で乳酸などの酸を出し、放っておけばpHは下がり続ける。そこで培養液には重炭酸(炭酸水素イオン)を中心とした緩衝系を組み込み、そのうえで装置側からもpHを能動的に動かします。
この能動制御は、酸性側と塩基側の二方向で成り立っています。pHが高すぎればCO2(二酸化炭素)を吹き込んで下げ、低すぎれば重炭酸ナトリウム溶けたCO2が酸、重炭酸イオンが塩基として釣り合う緩衝系。哺乳類細胞培養で最も一般的なpH緩衝。や水酸化ナトリウムなどの塩基を足して上げる。仕組みだけ見れば単純です。ただし落とし穴は副作用のほうにある。吹き込んだCO2は溶けて蓄積し、足した塩基は浸透圧溶液中の溶質濃度で決まる、水を引き込む圧。培養では上昇が細胞ストレスになる管理項目。を押し上げる——ラボスケールでは無視できたこの二つが、大きなタンクでは確実に効いてきます。
複雑さの核心は、酸性側と塩基側で効きも副作用も異なる点にあります。重炭酸緩衝の考え方を土台に、CO2散気と塩基添加をどう使い分けるか。溶存CO2(pCO2)がどう溜まるか。pHの死帯(デッドバンド)をどこに置くか。さらに乳酸・浸透圧との絡み合いや、大規模でのpCO2ストリッピング培養液に溜まった溶存CO2を、散気や通気によって抜き出す操作。大スケールで特に重要になる。まで、一つずつほどいていきます。
- CHO細胞のpH制御は、重炭酸緩衝を土台にCO2散気(酸性側)と塩基添加(塩基側)の二方向の能動制御で成り立ちます。
- 溶存CO2(pCO2)は大規模タンクで蓄積しやすく、高すぎると増殖や生産性、品質に影響するため適正な帯に収めます。
- pH・乳酸・浸透圧・pCO2は互いに引っ張り合い、死帯の設計やCO2除去と気泡ストレスの両立が大規模の勘どころです。
重炭酸緩衝系:なぜCO2でpHが動くのか
哺乳類細胞の培養で最も一般的な緩衝剤は重炭酸ナトリウム(NaHCO₃)です。体内の緩衝系と同じ仕組みをそのまま使えるため、生理に近い環境を再現しやすい点が選ばれる理由とされています。
化学的には、溶けたCO2が弱い酸としてはたらき、重炭酸イオン(HCO₃⁻)がその共役塩基として釣り合います。CO2が増えれば酸性側に、重炭酸が増えれば塩基性側に振れる関係です。両者の比とpHはヘンダーソン・ハッセルバルヒの式緩衝液のpHを酸と共役塩基の比から求める式。重炭酸緩衝ではCO2と重炭酸の比とpHを結ぶ。で結ばれ、この緩衝系のpKa緩衝が最もよく効くpHの目安となる値。重炭酸緩衝系ではおおよそ6付近にあるとされる。(緩衝が最もよく効くpHの目安)は概ね六・一から六・四あたりとされています。
ここで押さえておきたいのは、培養の狙いpH(多くの抗体プロセスでおよそ六・八から七・二の範囲)が、このpKaより高い側にあることです。緩衝の中心から外れた領域で運転することになるため、緩衝の効きは万能ではなく、装置側の能動制御と組み合わせて初めて安定する。重炭酸緩衝は土台であって、それだけでpHを保てるわけではない——この前提を外すと、スケールアップでの見積もりが狂います。
重炭酸緩衝系では、溶けたCO2が酸、重炭酸イオンが塩基として釣り合っています。だからCO2を吹き込めばpHは下がり、重炭酸や塩基を足せば上がる。制御の基本はこの二方向だけです。
酸性側と塩基側:CO2散気と塩基添加の使い分け
実際のバイオリアクター細胞やウイルスの培養を制御された環境下で大規模に行うための培養槽で、商業規模の製造に用いられる。では、pHは二方向の制御ループで保たれます。
| 状況 | 動かす向き | よく使う手段 |
|---|---|---|
| pHが設定より高い | 下げる(酸性側) | CO2ガスの散気(吹き込み) |
| pHが設定より低い | 上げる(塩基側) | 重炭酸ナトリウム、炭酸ナトリウム、水酸化ナトリウムなどの塩基添加 |
pHが高いときは、CO2を吹き込んでCO2と重炭酸の平衡を酸性側へずらします。逆にpHが低いときは、塩基をポンプで少しずつ加える。もう一つの選択肢として、CO2の吹き込みを止めて別のガス(窒素や空気)でCO2を追い出し、pHを上げる方法もあります。
塩基添加には副作用があります。液体の塩基を足すと培養液の浸透圧が上がり、大規模タンクでは混合が追いつかず局所的に高pHの領域ができて、細胞にストレスをかけることがある。塩基添加は効くが、浸透圧上昇と局所高pHという代償を伴う。この代償を避けたい場面では、ガスの出し入れだけでpHを保つ制御(空気散気を増減してCO2除去を調整するなど)が検討されます。
pCO2の蓄積:小スケールでは起きない問題
小さなフラスコやスケールでは、CO2の蓄積はあまり問題になりません。液面からの表面通気で相当量のCO2が抜けていくためです。タンクが大きくなると、この前提が崩れます。
蓄積の主な理由は二つあるとされます。一つは、CO2が培養液によく溶けること。もう一つは、大きなタンクほど液面が深く、下から入れた気泡が上がる間にCO2で飽和してしまうことです。気泡が液中に滞在する時間は、気泡がCO2で飽和するのに要する数秒よりずっと長いため、気泡はほぼ飽和した状態で液面に達する。結果として、散気だけではCO2を十分に抜き切れなくなります。
溶存CO2培養液に溶けた二酸化炭素の分圧。大スケールで溜まりやすく、高すぎると増殖・生産性・品質を落とす。(pCO2培養液に溶けた二酸化炭素の分圧。大スケールで溜まりやすく、高すぎると増殖・生産性・品質を落とす。)が高すぎると、CHO細胞の増殖が抑えられ、生産性が大きく落ちることが報告されています。ある報告では、pCO2が概ね一五〇mmHgを超えると増殖阻害と顕著な生産性低下がみられた、とされます。糖鎖タンパク質に付加される糖の鎖状構造で、抗体の有効性・免疫原性などに影響する重要な品質特性。(抗体に付く糖の鎖)のパターンなど品質側にも影響が及ぶ場合がある。一方で、生産性が最も高くなるpCO2の範囲をおおよそ三〇から七六mmHgあたりに置いた報告もあり、狙いは「低ければよい」ではなく適切な帯に収めることにあります。pCO2は低すぎず高すぎず、条件依存の適正帯に収めるのが要点です。
pCO2の蓄積は乳酸の代謝挙動とも絡みます。溶存CO2が高いと乳酸の消費への切り替わりが乱れやすいことが指摘されており、この関係はCHO細胞の乳酸代謝シフトの観点からも押さえておきたいところです。
pHの死帯(デッドバンド)と乳酸・浸透圧の相互作用
pHを一点に固定しようとすると、酸添加と塩基添加が交互に働いて制御が落ち着かず、試薬を無駄に消費しがちです。実務では設定値の上下に許容幅を設ける「死帯(デッドバンド制御で介入しない許容の幅。pH制御ではこの範囲内は薬剤を加えず、外れたときだけ調整します。)」を使い、その範囲内なら能動制御を動かさない設計にします。たとえばpH七・〇に対して上下〇・〇三といった幅がその一例です。
ただしこの幅の設計は、乳酸と浸透圧の相互作用と切り離せません。CHO細胞では、pHが下がるほど乳酸の生成が進みやすく、乳酸がさらにpHを下げるという悪循環に入ることがあります。これを断ち切るには塩基を足してpHを支える必要がありますが、塩基を足すほど浸透圧が上がり、乳酸が過剰に溜まれば増殖が鈍る。
| 動かす要素 | 連鎖して起きること |
|---|---|
| pHが下がる | 乳酸生成が進み、さらにpHが下がりやすい |
| 塩基を足してpHを支える | 浸透圧とpCO2が上がりやすい |
| 乳酸が過剰に溜まる | pH低下・浸透圧上昇と重なり、増殖が鈍る |
死帯を狭くすればpHは安定しますが、そのぶん塩基やCO2の投入が増え、浸透圧やpCO2の管理が難しくなります。逆に広げれば試薬は減るものの、pHの振れが品質に響くおそれがある。死帯の設計は、pHの安定と浸透圧・乳酸・pCO2の抑制とのバランスをとる作業です。この判断は本培養の運転設計そのものと一体で考える必要があります。
pH・乳酸・浸透圧・pCO2は独立に動きません。塩基を足せばpHは上がる一方で浸透圧とpCO2が上がり、乳酸が溜まればpHが下がる。死帯の幅は、この連鎖全体を見ながら決めるものです。
大規模でのpCO2ストリッピング
スケールアップで最後に効いてくるのが、溜まったCO2をいかに抜くか(ストリッピング通気でガスを追い出す操作。培養では溜まったCO₂を気泡で排出することを指す。)です。小スケールで最適だった散気・撹拌の条件が大きなタンクでそのまま通用するとは限らず、ここで想定外の問題が出やすい。
CO2除去の効率を決めるのは、気液の接触と液面から抜ける経路です。表面通気を強めれば除去は進む——ただしその効き目は、スケールが大きくなるほど鈍ると指摘されています。タンクが大きくなると液の体積に対する表面積の比が幾何学的に小さくなるためで、大きなタンクほど「表面から抜く」経路は当てにできなくなります。
そこで散気側の設計が重要になります。ただし高密度の流加培養では、CO2を抜くために散気を強めると、スパージャー(散気口)から入るガスの流速が上がり、気泡による物理的なストレスが細胞にかかることがあります。ある事例では、二〇〇〇Lの使い捨てバイオリアクター使い捨ての樹脂製バッグを培養容器に用い、洗浄・滅菌の手間を省いて交叉汚染のリスクを下げる培養装置です。詳しく →へのスケールアップで、このガス流速の上昇と溜まったpCO2が力価低下の原因として挙げられました。CO2を抜こうとする操作と細胞を傷めない操作は、しばしば引っ張り合う。大規模のpCO2管理は、CO2除去と気泡ストレス低減のせめぎ合いを解く設計です。
こうしたトレードオフは机上だけでは詰め切れません。CO2の物質移動膜際の濃い層を掃き流す力の源。抗体の拡散のしやすさに比例し、高粘度では低下して壁が厚くなる。を表すモデルを使って散気戦略を設計し、実機で検証する進め方が現実的とされています。pH制御を単独の操作としてではなく、散気・撹拌・供給と一体の運転設計として組み立てる——その視点が、大規模での見通しを広げます。
まとめ
CHO細胞のpH制御は、重炭酸緩衝という土台の上に、CO2散気培養液にCO2ガスを吹き込み、CO2と重炭酸の平衡を酸性側へずらしてpHを下げる制御操作。(酸性側)と塩基添加(塩基側)の二方向の能動制御を重ねて成り立ちます。仕組みは単純です。ただし、CO2は溶けて蓄積し塩基は浸透圧を上げるため、pH・乳酸・浸透圧・pCO2は互いに引っ張り合います。
小スケールでは表面から抜けていたCO2が、大きなタンクでは抜けにくくなり、pCO2の蓄積が増殖や生産性、品質に響きます。死帯(デッドバンド)の設計や、CO2除去と気泡ストレスのバランスをとる散気設計は、いずれもこの相互作用を見ながら決める作業です。pH制御を散気・撹拌・供給と一体の運転設計として組み立てること——それがスケールを越えて安定した培養につながります。
参考文献
- ICH Q11原薬の開発・製造を扱い、原薬側の管理戦略の作り込みを示すICHのガイドライン。, Development and Manufacture of Drug Substances(原薬の開発と製造に関する指針の入口)
- ICH Q8医薬品開発とQbDの考え方を示すICHガイドライン。重要品質特性(CQA)を定義している。(R2), Pharmaceutical Development(医薬品開発・QbDに関する指針の入口)
- FDA, Vaccines, Blood & Biologics(バイオ医薬品の製造・品質に関する情報の入口)
- EMA, Scientific guidelines(品質・製造に関する科学ガイドラインの入口)
- USP米国で医薬品・原料・試験法の公式基準を定める公定書で、製薬用水に関する規格も収載されている。, USP–NF General Chapters(一般試験法の入口)
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