ラマン分光によるバイオプロセスPATとは?強みと導入前の落とし穴

測定に使える光は、100万個に1個ほどしかありません。それほど弱い信号で、細胞が育つ培養槽の中を測れるのはなぜでしょうか。
理由は水です。ラマン分光は水の影響を受けにくいので、成分のほとんどが水の培養液でも、グルコースや乳酸の信号が埋もれません。プローブを培養液に浸すだけで、無菌の境界を開けずに、複数の成分を連続して読めます。PAT(Process Analytical Technology製造中の品質特性をセンサーなどでリアルタイムに測定し、工程を監視・制御する枠組みです。工程終了後の検査に頼らず、その場で品質を作り込むことを目指します。詳しく →、工程を測りながら管理する枠組み)の代表的な計測として、本培養に使われています。
ただし、装置が出すのは濃度ではなく、スペクトル(光の波長ごとの強さの並び)です。濃度に翻訳するのはモデルで、導入の成否もそちらで決まります。培養の工程を担当する人にも、PAT主に低分子製造で、化学反応の進み具合(転化率など)を製造中にその場で追跡する手法です。こうしたリアルタイム測定・制御の技術はPATと呼ばれます。詳しく →の導入を検討する人にも、プローブや解析ソフトを提案する営業にも、仕様表を見比べる前に確かめておきたい点があります。順に挙げます。
水の影響が小さい ― 弱い光でも培養に向く理由
ラマン分光光を当てて分子固有の散乱スペクトルを捉え、培養液中の糖や代謝物などの濃度を無菌のまま連続監視する手法です。抜き取り不要で測れます。詳しく →は、物質にレーザー光を当て、返ってくる光のうち波長がわずかにずれた成分から、分子の種類を知る方法です。
散乱光の大部分は、当てた光と同じ波長で返ってきます(レイリー散乱)。分子の振動とエネルギーをやり取りして波長がずれる光、つまりラマン散乱は、100万個に1個ほど、条件によってはそれ以下です。ずれの大きさは分子内の結合の種類で決まるため、波長ごとの強さを並べたスペクトルは、成分の指紋として使えます。
培養に向く理由は、ここからが本題です。中赤外の吸収分光は、水が光を強く吸収するので、水系の試料では溶けている成分の信号が水に隠れます。ラマンでは水は散乱の弱い物質にすぎません。赤外では水が大音量で鳴り続ける部屋、ラマンでは水が静かな部屋にたとえられ、静かな部屋でならグルコース微生物発酵でエネルギー源となる糖類などの炭素源と、目的遺伝子の発現を促す誘導物質のことです。詳しく →や乳酸の小さな声も聞こえます。
実装も培養に合います。プローブは槽に浸けて使い、121 ℃の蒸気滅菌に耐える設計のものもあります。シングルユースのバイオリアクター細胞やウイルスの培養を制御された環境下で大規模に行うための培養槽で、商業規模の製造に用いられる。詳しく →なら、窓越しに測る方式が使えます。サンプリングのたびに生じる汚染のリスクと人手が要らないので、数週間続くフェドバッチや灌流の運転では、この差が積み上がります。
一方で、信号が弱いことはそのまま弱点です。培地細胞を体外で生存・増殖させるために必要な栄養・エネルギー源・成長因子などを含む液体または固体の環境基盤。詳しく →や細胞に由来する蛍光が重なると、目的のピークは簡単に埋もれます。泡、細胞そのものの散乱、温度、プローブ表面への付着も、信号を動かします。
水に強いことと、何でも正確に測れることは別です。泡や付着や蛍光といった槽の中の事情は、最後にモデルが引き受けます。
読みやすい成分と、読みにくい成分 ― 培養で当たる範囲
一本のスペクトルには複数の成分の信号が重なっているので、うまく分離できれば、代謝物も細胞も製品も一度に推定できます。ただし、成分によって当たり方に差があります。
読みやすい成分に、乳酸とグルコースが入っているのは好都合です。乳酸は、増殖期に溜まったあと産生期に消費へ転じる代謝シフトが起きたかどうかが、工程の目印です。グルコースが切れかけているかどうかも同じで、翌日の分析結果を待たずに分かる価値は大きいのです。
実際に、ラマンで乳酸の濃度を制御して、細胞密度、生存率細胞集団のうち生きている細胞の割合。凍結・培養の品質を示す基本指標。詳しく →、製品の産生量が改善したという報告があります(Matthewsら、2016年)。グルコースの制御を短期間で立ち上げ、製品品質に影響を与える方法を示した報告もあります(Berryら、2016年)。推定値をフィードポンプの制御に使う具体的な組み立ては、Ramanインライン計測で培養をリアルタイム制御するで解説しています。
培養の外にも使いどころは広がっています。下流工程では、タンパク質濃度のインライン把握やカラムのブレークスルーの監視、固体では結晶多形や凍結乾燥製剤から水分を抜いて乾燥させ、長期安定性を高めた剤形。使用時に溶かして戻す。詳しく →ケークの状態の評価です。低分子の結晶多形同じ分子が複数の異なる結晶構造をとる現象。溶解度や安定性、吸収性が形ごとに変わりうる。詳しく →評価のように確立した用途もあれば、バイオ医薬ではまだ検討段階の用途も混じります。
グルコースや乳酸のように濃く明瞭な成分は制御に使う候補、アンモニウムのように薄い成分は傾向の監視にとどめる。この仕分けが、導入のいちばん最初の判断です。
スペクトルは濃度ではない ― 数字を作るモデルの寿命
装置が出すのは、多数の波数の点にわたる強度の並びです。そこから、たとえばグルコースが何 g/L かを答えるのが、ケモメトリクス多数の測定データから関係性や傾向を統計的に読み解くソフトです。分光データなどを解析し、品質や工程状態の把握に使います。詳しく →(化学計測のための多変量解析)のモデルです。
作り方は、答え合わせつきの練習問題に似ています。まず前処理細胞移植の前に患者へ行う処置。生着の場を空けるために既存の骨髄細胞を減らす目的で実施される。詳しく →で、蛍光のゆるい傾きや散乱の変動、ノイズを落とします。そのうえでPLS(部分最小二乗)回帰という手法に、スペクトルと、オフラインの分析計で測った値の組を、何バッチ分も覚えさせます。「この形のスペクトルなら、グルコースはこのくらい」という対応を、分析計の値を答えにして学ばせるのです。答えが不正確ならモデルもそれ以上には育たないので、参照に使う分析計の精度が、モデルの上限を決めます。Nova Biomedical の BioProfile FLEX2 や Roche CustomBiotech の Cedex Bio Analyzer のように、培養液のグルコースや乳酸を測る分析計が、その役を担います。
大事なのは、モデルが学んだ範囲の内側でしか当たらないことです。細胞株が変われば散乱が変わり、培地のロットが変われば背景が変わります。スケールを変えても、プローブを交換しても、信号の出方は変わります。複数の企業、拠点、分光器のデータを集めて汎用モデルを作った研究は、従来のモデルの弱点として、校正に手間がかかること、系や工程が少し変わっただけでも再校正が要ることを挙げています。
怖いのは、外れ方が静かなことです。エラーは出ません。もっともらしい数字が出続け、その数字に従ってフィードポンプが回ります。泡がプローブの前を通った瞬間のスペクトルのように、短い乱れなら見つけやすいのですが、培地を替えてから予測が少しずつ偏っていくような外れ方は、グラフを眺めているだけでは分かりません。
備えは三つあります。再校正の頻度を決めること。プローブや分光器を替えても同じ値が出るように、機差を補正する手順(キャリブレーショントランスファー)を持つこと。予測値と、定期的に測るオフラインの値との差を追い続けること。どれも導入時の予算と工数に最初から積んでおきます。
モデルは、学んだ範囲の外では黙って外れます。外れたことに気づく仕組みまで含めて、導入の仕事です。
装置の確認とモデルの確認は別物 ― USP〈858〉と ICH Q14
ラマンの運用には、性格の違う二つの確認があります。この二つは混ざりやすい点です。
一つは装置の確認です。据付、稼働、性能の適格性確認に加え、波数の軸がずれていないか、強度の応答が保たれているかを確かめます。USP米国で医薬品・原料・試験法の公式基準を定める公定書で、製薬用水に関する規格も収載されている。詳しく →の一般章〈858〉がラマン分光を扱い、理論と実践の解説として〈1858〉が添えられています。波数の軸がずれていれば、どれほど良いモデルでも当たりません。
もう一つはモデルの確認です。予測値が、参照の分析計の値と合っているか。多変量の分析法をどう開発するかはICH Q14、どう検証するかはICH Q2(R2)分析法バリデーションのガイドライン。分析手順が妥当性を持つことを確認する枠組みを定める。詳しく →が扱っています。
二つは別々に崩れます。装置の校正記録はすべて合格なのに、培地を替えてから予測が偏っている。逆に、モデルは妥当なのに、プローブを交換して機差が乗った。装置の記録だけを見ても、モデルの状態は分かりません。手順書作業の手順を定めた文書。品質システムの要素を具体化し、査察でも運用が確認される。詳しく →を一冊にまとめてしまうと、片方が崩れていても、もう片方の合格に隠れて気づけません。
QAや監査を受ける側の人は、次の問いが分かりやすい目安です。ラマンの値で工程の判断をしているなら、その値を保証する記録は、装置の側とモデルの側の両方にあるか。
波数の校正記録が合格でも、モデルが当たっている証拠にはなりません。逆も同じです。
導入前に確かめること ― 槽、対象、校正データ、維持
順番は、槽、対象、校正データ、維持の4つです。
先に決まるのは槽の側です。浸漬型のプローブを入れられるポートがあるか、槽は蒸気滅菌かシングルユース使い捨ての樹脂製バッグや容器を用いる製造方式です。洗浄・滅菌の手間を減らせる一方、ステンレス設備と比べて特徴が異なり、目的に応じて選び分けます。詳しく →か。ここでプローブの形が決まり、選べる装置が絞られます。測りたい成分から装置を選ぶと、槽に付かないという理由で振り出しに戻ります。
次に、読む対象を仕分けます。制御に使う成分と、傾向を見るだけの成分を分けると、必要な誤差の水準が決まります。
そのうえで、校正データを設計します。狙う濃度の範囲、細胞株、培地のロット、スケールを、実運用で振れる幅まで意図的に振って集めます。校正データの厚みは、あとから足せますが、足すまでは当たりません。
最後に維持の体制を決めます。ここが空いたまま導入すると、数か月後にはモデルの状態を誰も説明できなくなります。
メーカーや社内の関係者に確かめたいことを、手元で確かめられる形で並べます。
- 取り付けるポートの寸法と、滅菌の方式(蒸気かシングルユースか)
- 推定したい成分のうち、制御に使うものと、傾向の監視にとどめるもの
- 校正データに含める細胞株、培地ロット、スケールの範囲
- 参照値を測る分析計と、その測定のばらつき
- 再校正の頻度と、予測値とオフライン値の差を毎回見る担当者
- プローブや分光器を交換したときの、機差補正の手順
- 解析ソフトで、モデルの版と変更履歴が残るか(監査証跡のレビューの対象です)
- 装置の適格性確認とモデルの維持が、別々の手順になっているか
ラマンの製品はラマン分光モニタリングで、近赤外やフーリエ変換赤外との違いはNIR/FTIRモニタリングで、培養槽側の機器は培養制御システムで比べられます。推定値の遅れが制御に与える影響は工程内センサーの応答時間、ラマンを含めた計測を制御の全体に組み込む考え方はPATとリアルタイム工程制御とソフトセンサーとデジタルツインが続きです。管理戦略工程を管理された状態に保つための管理の束。工程条件や試験、規格などを組み合わせて設計する。詳しく →の中での位置づけは管理戦略にまとめています。
参考文献
- FDA, Guidance for Industry PAT: A Framework for Innovative Pharmaceutical Development, Manufacturing, and Quality Assurance(2004年)
- Matthews TE, et al. Closed loop control of lactate concentration in mammalian cell culture by Raman spectroscopy leads to improved cell density, viability, and biopharmaceutical protein production. Biotechnol Bioeng. 2016;113:2416.(乳酸の閉ループ制御の報告)
- Berry BN, et al. Quick generation of Raman spectroscopy based in-process glucose control to influence biopharmaceutical protein product quality during mammalian cell culture. Biotechnol Prog. 2016;32:224-234.(グルコース制御グルコースを低めに維持して過剰な乳酸産生を抑えるフィードの進め方。乳酸蓄積の低減に有効です。の報告)
- Generic Chemometric Models for Metabolite Concentration Prediction Based on Raman Spectra(複数の拠点・分光器のデータによる汎用モデル。従来モデルの再校正の負担)
- ICH Q8医薬品開発とQbDの考え方を示すICHガイドライン。重要品質特性(CQA)を定義している。詳しく →(R2), Pharmaceutical Development
- ICH Q13原薬・製剤の連続生産に関する品質・規制の考え方を整理した国際調和ガイドライン。詳しく →, Continuous Manufacturing of Drug Substances and Drug Products
- ICH Q14分析法の開発を扱うガイドライン。方法のライフサイクル全体と、科学・リスクに基づく変更管理を扱う。詳しく →, Analytical Procedure Development、ICH医薬品規制の国際調和を目的として、日米欧の規制当局と製薬業界が参加する国際的なガイドライン策定機関。詳しく → Q2(R2), Validation of Analytical Procedures(多変量の分析法の開発と検証)
- USP General Chapter <858> Raman Spectroscopy, United States Pharmacopeia and National Formulary(有償の規格。USP-NF)
- USP General Chapter <1858> Raman Spectroscopy: Theory and Practice, United States Pharmacopeia and National Formulary(同上)
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