低分子研究・非臨床安全性

ICH S9とは?抗がん剤の非臨床をどう簡略化するか

抗がん剤の開発に携わると、最初の壁は健康な人が被験者にならないことだと気づきます。進行がんの患者に、まだ人で使ったことのない薬を初めて投与する。普通の医薬品なら、安全をたっぷり取った微量から入って、何週間もかけて慎重に増やしていきます。けれども、ほかに有効な治療がなく、病気のほうが差し迫っている患者には、その余裕が必ずしもありません。効くかもしれない薬に、できるだけ早くたどり着く。そこへ評価の重心が移ります。

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ICH S9とは?抗がん剤の非臨床をどう簡略化するか

日米欧が合意した ICH(医薬品規制調和国際会議)のガイドライン ICH S9 は、この特殊な状況のために非臨床評価を組み替えた枠組みです。確かめる項目を絞り、臨床へ進む速さを優先します。核心は一点にあります。初回用量を、毒性が出なかった量ではなく、毒性が出る量から決めることです。健康成人を前提に一般の開発を定める ICH M3(R2)臨床試験を支える非臨床安全性試験の実施時期や内容の全体像を示すICHガイドライン。詳しく → とは、ここが根本から違います。

本稿では、S9 が別枠になる理由から、初回用量の置き方(STD10・HNSTD)、試験期間と動物種、がん原性・遺伝毒性・生殖発生毒性薬が受胎・胚胎児の発生・出生後の発育など次世代に及ぼす影響を調べる非臨床安全性試験。詳しく →をどこまで省くか、併用療法、そして S9 を外れる場面まで、開発の流れに沿って整理します。どこを省き、どこを守るのか。その線引きが S9 を読むときの勘どころです。

この記事の要点
  • ICH S9 は進行がんなど命に関わる疾患向けの枠組みで、ヒトより病気の切迫を重く見て非臨床を簡略化します。
  • 初回用量は無毒性量ではなく毒性側から置き、げっ歯類の STD10 の10分の1、または非げっ歯類の HNSTD の6分の1 を目安にします。
  • がん原性は原則不要、遺伝毒性は承認まで、生殖発生毒性は胚・胎児へ絞るなど、必要な試験が対象集団に応じて減ります。

S9 が別枠になる理由 ― 患者が最初の被験者になる前提

最初に押さえるのは、評価の物差しそのものが違うことです。普通の薬と同じ天秤では測れません。

一般の医薬品では、健康なボランティアに初めて投与します。だから安全側に大きく振り、少しでも害が出そうな量は避けます。ところが進行がんでは、最初の被験者が患者です。ほかに有効な治療がないことも多い。命に関わる病気を前にすると、ある程度の毒性は受け入れてでも効く薬を早く届けるほうが、患者の利益にかないます。

抗がん剤そのものの性質も効いています。細胞を殺す薬や増殖を止める薬は、設計からして毒性を持ちます。無害な量を探すという発想が、そもそも薬の効き方と噛み合いません。健康成人の安全を前提に組まれた ICH医薬品規制の国際調和を目的として、日米欧の規制当局と製薬業界が参加する国際的なガイドライン策定機関。詳しく → M3(R2) の手順をそのまま当てると、患者に届くまでに時間がかかりすぎます。

S9 はこの前提をひっくり返しました。守る相手は健康な人ではなく、差し迫った病気の患者です。だから確かめる項目を絞り、臨床へ進む速さを優先します。

S9 の簡略化は手抜きではありません。命に関わる病気を前にして、どこまで非臨床で確かめればヒトに進めるかを引き直した結果です。

初回用量をどう置くか ― STD10 と HNSTD

普通の薬は、毒性が出なかった量から入ります。S9 は逆です。

一般の初回投与量は、動物で有害な変化が増えなかった最高用量(NOAEL、無毒性量)を土台にします。これをヒト等価用量動物の用量を体表面積換算でヒトの用量に直した値(ヒト等価用量)のこと。詳しく →に直し、10倍の安全係数動物からヒトへの当てはめに残る不確かさを見込んで初回量を下げる除数で、標準は10とされる。詳しく →で割って開始量を決める。種差や個人差の不確かさを、余裕として飲み込む設計です。この考え方は 初回投与量(NOAEL/HED) で詳しく扱っています。

S9 は、ここを毒性側に置き換えます。げっ歯類では STD10 を使います。STD10 は severely toxic dose in 10% の略で、重篤な毒性が10%の動物に出る用量です。初回用量は、この STD10 の10分の1 を目安にします。毒性が出る量から、1桁だけ戻して始めるという発想です。

非げっ歯類のほうが適切な種なら、HNSTD を使います。HNSTD は highest non-severely toxic dose の略で、重篤で元に戻らない毒性や生命を脅かす毒性を示さない最高用量です。この場合は HNSTD の6分の1 を初回用量の目安にします。いずれも体表面積をそろえた用量(mg/m²)に直して比べ、血中の曝露量で裏づけます。曝露の測り方は トキシコキネティクス(ICH S3A) の領域です。

低く入りすぎると、効かない量を何サイクルも投与することになり、患者の時間を無駄にします。だから S9 は、あえて毒性の近くから始めます。

POINT
初回用量は、げっ歯類なら STD10(動物の10%に重篤な毒性が出る用量)の10分の1、非げっ歯類が適切なら HNSTD(重篤な毒性を示さない最高用量)の6分の1 が目安です。無毒性量ではなく毒性が出る量から戻して置く点が、健康成人向けの設計と最も違います。

出発点が毒性側にあること。これが S9 の初回用量設計の芯であり、普通の薬との分かれ目です。

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試験期間と動物種 ― 臨床スケジュールに合わせる設計

初回投与を支えるのは、一般毒性試験です。ここは普通の薬と大枠が同じです。

げっ歯類1種と非げっ歯類1種の2種で、臨床で使う投与経路に合わせて調べます。S9 で特に重いのは、動物の投与スケジュールを臨床にそろえることです。3週ごとに点滴する薬なら、動物も同じ間隔で投与する。連日のむ薬なら、動物も1日1回続けます。使い方が違えば毒性の出方も変わるからです。

期間は普通の薬より短く済みます。慢性に使う薬は6か月や9か月の試験を求められますが、進行がん向けでは、最長でも3か月(約90日)の反復投与毒性試験薬を繰り返し与え、どの臓器がどの量から傷むか、回復するかを調べる中核の毒性試験。詳しく →でおおむね足ります。臨床試験を進めるときも、承認を取るときも、この長さが目安です。毒性が元に戻るか(回復性)も、同じ試験の中で確かめます。

安全性薬理心血管・中枢神経・呼吸への急な影響を、臓器毒性とは別枠で見る評価(コア・バッテリー)。詳しく →も、独立した試験を先に組むとは限りません。心血管・中枢神経脳と脊髄のことで、安全性薬理では意識・運動・体温などへの急な影響を評価する対象。詳しく →・呼吸という重要臓器への影響は、一般毒性試験の中で一緒に観察するのが基本です。QT 延長など特段の懸念があるときに、安全性薬理のコアバッテリー(ICH S7A日米欧の規制当局が合意した、ヒト用医薬品の安全性薬理試験に関する国際的なガイドライン。詳しく → が示す評価)を足します。免疫への影響が疑わしい薬では、免疫毒性(ICH S8) の観点も重ねます。

POINT
一般毒性は、げっ歯類と非げっ歯類の2種で臨床の投与スケジュールをまねて組みます。期間は最長3か月ほどで、慢性薬のような長期試験は要りません。安全性薬理は原則として一般毒性に取り込み、懸念があるときだけ独立した評価を足します。

がん原性と遺伝毒性をどう省くか

長期の試験の多くは、進行がんでは省けます。理由は患者の置かれた状況にあります。

がん原性試験薬を長期に投与したとき、がんのできやすさを調べる特殊な毒性試験で、長期投与薬で重要。詳しく →は、動物のほぼ生涯にあたる2年をかけて腫瘍の増加を見る試験です。S9 では、進行がん向けの承認に原則として求められません。余命が限られる患者で、生涯の発がんリスクを2年がかりで調べても、判断がほとんど変わらないからです。抗がん剤の多くが遺伝毒性化合物が遺伝子や染色体を傷つける性質。点突然変異や染色体損傷を含み、複数の試験で分担して調べる。詳しく →や細胞毒性物質が細胞の生存や増殖を障害する性質のことで、過剰な細胞毒性条件下では偽陽性の遺伝毒性シグナルが生じやすくなる。詳しく →を持つことも、追加の情報が乏しい理由です。要否の考え方そのものは がん原性試験(ICH S1) で整理しています。

遺伝毒性も扱いが軽くなります。遺伝子や染色体への傷を調べる標準の試験群は、進行がんの患者を対象とする臨床試験の前には要りません。承認までに 遺伝毒性の標準バッテリー(ICH S2) を揃えれば足ります。作用機序薬が効果を発揮する仕組み。抗体医薬ではADCCやCDCなどが該当し、アッセイで裏づける。詳しく →からすでに遺伝毒性が明らかな薬では、その試験を省ける場合もあります。

ここで一つ注意があります。省けるのは、あくまで対象が進行がんにとどまる限りです。試験を省く根拠は薬そのものではなく、患者集団の切迫にあります。狙う集団が変われば、同じ薬でも求められる試験は戻ってきます。

進行がんでは、生涯の発がんリスクより目の前の病気が重い。だからがん原性はほぼ求められず、遺伝毒性も臨床試験の前には要らず、承認までに揃えれば足ります。

生殖発生毒性の扱い ― 胚・胎児発生に絞る理由

生殖発生毒性も、全部を調べるわけではありません。見るのは胚・胎児への影響が中心です。

一般の開発では、受胎能から出生後の発育まで、生殖の全過程を複数の試験で追います。進行がん向けの S9 では、承認に向けて胚・胎児発生(EFD、embryo-fetal development)の評価を揃えるのが基本です。受胎能や、出生前後の発育(PPND妊娠後期から授乳期に投与し、生まれた子の生存・成長・機能への影響を追うDARTの局面。詳しく →、pre- and postnatal development)までは、原則として求められません。生殖の全体像は 生殖発生毒性試験(DART) にまとめています。

その胚・胎児発生の評価さえ、試験なしで足りることがあります。急速に分裂する細胞を狙う遺伝毒性のある薬は、胚に害を及ぼすことが作用機序から自明だからです。この場合は、文献や機序に基づく評価で危険性を示し、動物試験を省く判断が成り立ちます。

受胎能や出生後の発育までは追わず、胚・胎児への影響に絞る。作用機序から催奇形性薬が胎児に形態異常(奇形)を引き起こす性質。EFDで検出する重要な所見。が見通せる薬では、その評価さえ試験なしで足りることがあります。

併用療法の非臨床

がんの治療は、単剤より併用が普通です。非臨床をどこまで足すのかが問われます。

二つの薬を組み合わせるとき、それぞれが単剤で十分に調べられていれば、併用そのものの毒性試験は原則として要りません。すでに単剤の非臨床データと臨床経験があるなら、組み合わせの安全性はそこから見通せるという考え方です。進行がんの患者を対象とする臨床試験では、この省略が広く認められます。

一方の薬の情報が薄いときは、話が変わります。新規性の高い成分や、特段の懸念がある組み合わせでは、短い併用毒性試験を足すことが検討されます。足すかどうかは、各剤をどこまで知っているかで決まります。

POINT
両方の薬が単剤で十分に特性解析されていれば、併用の非臨床毒性試験は原則として不要です。一方の情報が薄いときや懸念があるときに限って、短い試験を足すかを考えます。判断の軸は、各剤の情報の厚みにあります。

S9 を外れるとき ― 予後が良い患者と開発後期

簡略化が効くのは、進行がんにとどまる間だけです。対象が変われば前提も変わります。

薬の開発が進み、治癒率が高く再発も遅い集団や、予防的・補助的な使い方、あるいは命に直結しない適応へ広がると、S9 の前提が崩れます。患者がより長く生きる以上、生涯の発がんや次世代への影響を、改めて確かめる意味が出てくるからです。このとき評価は、一般の ICH M3(R2) の枠組みへ戻ります。

戻ると、いったん省いていた試験を改めて求められます。がん原性(ICH S1)、受胎能から出生後までを含む生殖発生の全試験(ICH S5生殖発生毒性の評価法を国際調和で示すICHガイドライン。生殖過程を時間軸で区切る枠組み。詳しく →)、独立した安全性薬理、より長い期間の反復投与毒性試験です。抗体などバイオ医薬品抗体・タンパク質・核酸など生体由来の分子を利用して製造された医薬品の総称。詳しく →では、バイオ医薬品の非臨床安全性(ICH S6) の考え方も重なります。

S9 の身軽さは、命に関わる進行がんという前提とひとそろいです。治るがんや予防的な使い方へ広げるなら、省いた試験は戻ってきます。

非臨床を組む順番

最後に、S9 で開発を組むときの決める順番を整理します。

まず対象集団を見定めます。進行がんで S9 の範囲に入るのか、それとも予後の良い集団なのか。ここで必要な試験の数が丸ごと変わるため、いちばん先に決めます。次に臨床の投与スケジュールを固め、一般毒性試験を2種(げっ歯類と非げっ歯類)でそれに合わせて組みます。

そのうえで初回用量を置きます。げっ歯類なら STD10 の10分の1、非げっ歯類が適切なら HNSTD の6分の1 から始めます。承認に向けては、胚・胎児発生(EFD器官形成期を含む妊娠期に母動物へ投与し、胎児の外表・内臓・骨格の異常を調べるDARTの中心試験。)を揃え、遺伝毒性のバッテリーを埋めます。がん原性と出生後の発育は、対象が進行がんにとどまる限り原則として省きます。

最後に、適応が予後の良い集団へ広がる見込みが出た時点で、ICH M3(R2) の枠組みに戻り、足りない試験を洗い直します。ここで判断を分けるのは、治癒率と再発までの時間です。切迫が薄れるほど、一般の開発パラダイムが近づきます。

参考文献

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編集メモ:この記事はProglenth編集部が、低分子に関する基礎的な情報を、はじめての方にも分かるように整理したものです。実際の製造方法・管理戦略・品質基準は、製品や企業、各国の規制によって異なります。本記事は一般的な解説であり、特定製品の推奨や規制・医療上の助言ではありません。実務で判断される際は、各極の薬局方・ガイドライン(ICH/GMP等)やメーカーの一次情報を必ずご確認ください。内容に誤りやご指摘があればお問い合わせからお知らせください。